戦     争     の     記     憶


 日本が戦争を行ったこと、そして敗戦になったこと、これは誰
もが知っていることである。しかし、戦争が終わってから年月が
たち、いっぽうで戦争を経験した方々が減ってきていることも事
実である。そのために、戦争の記憶をたどったり、戦争につい
て自分自身がどのように語っていけばよいかと思うことがある。

 実際、自分自身にあてはめると、とっくに亡くなっているが、祖
父は戦争を経験している。小さいころに聞いた話は、満洲へ行
って偵察機の乗っていたということ、偵察機から中国軍の侵攻
が見えたこと、そして戦争に負けてシベリアへ抑留されたこと、
その抑留地はチタであり、冬の寒さは尋常ではなかったことな
どを聞かされた。

 母は、中国のパオトウで生まれた。現在は内モンゴル自治区
の大都市であるが、満洲国の時はお店を経営していたらしい。
そして、日本の兵隊が店にやってきたという話を聞いた。さらに、
敗戦となり日本へ帰る際には、逃げるように列車に乗ったとい
うこと、そして駅で両親とはぐれてしまったこと、列車が動き出す時に見つかり、無事に日本へ帰国できたということを聞いた。

 しかし、これらの話をさらに聞きたくても、過去の記憶があいまいになったり、亡くなってしまったりして、聞くことができなくなってしまう。そして、戦争の記憶がどんどん消えていくのだろうと思う。今となっては、もっと聞いていたり、メモを取ったりしていればよかったと思っている。
 
 そういうことで、自分自身が知りたくて、そして、それを伝えたくてそこへ行くことにしている。

 実際行ってみると、怖さよりもそれらを展示することで時間が止まったように感じてくる。そして、それらを自分自身が想像することで、改めて戦争の怖さが伝わってくるのである。

 ポーランドのアウシュビッツ強制収容所・リトアニアのカウナスの旧日本領事館・モンゴルの日本人墓地、いずれもそうだった。

 とある旅行で、南方へ行ってみたいと思った。グアムを起点にパラオやミクロネシアなどである。普通だったらダイビングのどのマリンスポーツで有名である。しかし、今回は戦争の軌跡をたどってみたいと思って旅立った。

 パラオでは、コロール市街に1台の戦車が置いておった。ミクロネシア連邦のポンペイ島の中心であるコロニアの町にも1台の戦車があった。これだけでも、戦争の軌跡をたどるには十分だと思った。

 さらに、パラオのペリリュー島へ行く機会があった。ここは当時、パラオで唯一の滑走路があった。十字をした滑走路があるため、どのような天候でも戦闘機が離発着できたそうである。それをアメリカ軍が侵攻してきたのである。当時3日で墜ちるといわれていたが、日本軍の予想外の抵抗により2か月を要したそうである。その戦争のすごさを、朽ち果てた建物や戦車・ゼロ戦などでうかがうことができる。怖さはないが、戦争の悲惨さは十分に想像することができたのである。

 このあと、北マリアナ諸島のテニアン島へ向かった。なぜなら、ここの基地から原子爆弾を乗せたB29が飛んでいったからである。今は、滑走路横にオブジェのようなものがあるが、とても複雑な気持ちになった。

 そして、日本に帰国した際に、広島の爆心地や原爆ドームへ行く機会があった。テニアン島へ行った後の広島は、時間が止まったように感じた。

 ふと、日本の博物館や戦争に関する資料館へ行ったことを思い出した。

実際行ってみて思ったことは、資料や写真でその恐ろしさや怖さを伝伝えてくるものが多かった。しかし、それをみて「怖い」から戦争は怖いものだと結論づけているものが多いように思えた。

 どれが正しい、間違っているというつもりはないが、これだけはいえるだろう。

 戦争は、もう決してやってはいけないということだ。