チ   ェ   ル   ノ   ブ   イ   リ

 1980年代後半。まだロシアがソ連といわれていたころに、チェルノブイリ原子力発電所で事故が起こりました。


 ウクライナの「SAMトラベル」ではチェルノブイリへの1日ツアーを
やっています。毎日ではないですがツアーがある日はたとえ1人で
も参加できそうです。1人のときは420ドルで人数が増えるにつれ
て安くなっていきます。ぼくのときは5人参加で108ドルでした。
 朝、旅行社の前で待っていると参加者が集まりました。イギリス人、
スウェーデン人、フランス人、オーストラリア人とぼくです。
ワゴン車に乗って出発しました。
 車はしばらく町中を走ったあと郊外へと出て行きました。するとし
だいに風景ものんびりしたものになりました。2時間くらい走り続け
ると道を曲がりさらに進んでいきました。車の数もさらに少なくなり
ほとんど走ってこないようになりました。なぜなら1つのゲートがある
からです。
 ここでパスポートチェックをしました。
つまり、ここから先が放射能汚染のため、入るのが制限された地
域になるのです。車はゲートを通って制限区域に入りました。
何かが変わるわけではないですが、何となく周りの空気が変わった
ような気がしました。
 そして、チェルノブイリの町へ入りました。ここで生活している人もいます。おそらくこの地域の監視や様子を把握するために滞在しているのでしょう。
 1つの建物の中に入りました。この建物の中では事故の様子や被害の様子などを展示していました。「セシウム」の飛散の図や写真などを見ていると、ほんとうにここへいてもいいのかという恐怖感さえありました。ろう下には放射能に汚染されているかの測定器がありました。大丈夫と思いつつ測定してみました。結果は「緑(安全)」と出ました。ツアーがある以上大丈夫なのはわかっていますが、測定の結果に胸をなでおろしたのは言うまでもありませんでした。
 説明を聞いた後昼食になりました。ここから迷彩服を着た人がガイドとしてつくのですが「食べ物は汚染されているかも知れない。」とジョークを言っていました。
 昼食を食べた後、いよいよチェルノブイリの町を回り始めました。教会や競技場などをみました。そのあと廃屋や湖の上の廃船なども見ました。すべて事故のあとから時間が止まっているようでした。そんな町の中にも道路沿いに売店がありました。みんなでジュースや水などを買いました。
 そして、いよいよチェルノブイリ発電所へ向かうことになりました。
しばらくは草原地帯を走りました。そのうち送電線が増え始め発電所が近いと思いました。すると、遠くにテレビや写真でよく見るあの建物が見えてきました。そうです。今から20年前に大惨事を起こした「チェルノブイリ第4発電所」です。とうとうここまでやって来た・・・自分から参加したとはいえ複雑な思いでした。
 最初に遠くからの写真撮影をしました。そして、いよいよ発電所内へ入りました。中はけっこう広かったですが写真の制限もありました。なぜなら第1・第2・第3発電所はまだ稼動しているからです。つまり国家の重大機密ということで撮影の禁止だったのです。でも、信じられないのはここで毎日働いている人がいるということです。いまだに放射能は残っているはずですから・・・
それとも「危険」を「安全」ということをアピールしているのでしょうか。それとも防護服を着るとか定期検査や入場制限をしながら働いているのでしょうか。ぼくは「後者」であることを願っています。
 途中で池のようなものがあったのでそこでも降りました。この池の中に魚がいてパンを与えました。これもツアーの1つです。でも、この水は原子力発電所の冷却水に使われているみたいです。
つまり、魚が泳ぐほど安全な水であることをアピールしているみたいでした。
 そのあと、大惨事の起こった発電所を間近で見られる場所へ着きました。ここにモニュメントも建っていました。そのモニュメントの向こうに「棺おけ」はそびえ立っていました。大惨事を起こした「棺おけ」はさびていて老朽化が目立っていました。それが20年の月日をものがたっていました。近いうちに全体を覆い隠すようにするという予定だと言っていました。写真は撮りましたが周辺部は撮影禁止でした。
 ツアーによっては1泊して発電所の内部まで見学できるものもあるそうです。
でも、そこまでするお金と勇気はありませんでした。
 10分くらいの滞在のあと車に乗って「チェルノブイリ発電所」を出発しました。そして、「プリヒャチ」の町へ向かいました。
 チェルノブイリ発電所を出発するとすぐに「プリヒャチ」の町へ行きました。ここは発電所で働く人たちのためにできた町だということです。ですからソ連当時は「秘密都市」ともいわれていたそうです。でも、あの大惨事以来、廃墟と化してしまいました。住んでいた人は「2・3日の避難」という言葉を信じ、着の身着のまま避難するバスに乗ったそうです。二度と帰ることのない片道行きのバスに・・・
 町の入り口にも小さなゲートがありました。これは廃墟内をうろつく盗人対策と言っていました。もう20年もたつというのに・・・車を降りひとつの建物に入りました。どうやら大学のようでした。ホールは朽ち果て図書館は本が散らばっていました。もちろん風化したのもありますが誰かが散らかしたのもあるようです。
 次にスーパーマーケットへ行きました。
ここも当時のまま放置されていました。もちろん食べ物は何もありません。買い物用のカートがさびしく放置されていました。
 その次に小学校へ行きました。机もいすもばらばらでした。学習教材もいくつか残っていました。保育園のような場所もありました。空のベッド(骨組みだけの)がたくさん並んでいました。そして、誰が置いたかわかりませんが防毒マスクがありました。
 小学校から出て車へ戻る途中に「観覧車」がありました。20年間お客が乗っていない観覧車です。遊具もいくつかありました。
20年前はここで子どもたちの明るい声が響いていたのでしょう・・・その観覧車に見送られて車に乗り「プリヒャチ」の町を出ました。
 車はチェルノブイリの町へ戻り案内のガイドと別れてキエフに戻り始めました。しばらく走ると最初に通ったゲートが見えました。ここで「X線」のチェックをしました。当たり前ですが結果は「緑ランプ(OK)」でした。全員のチェックが終わってゲートを出ました。
やっと「汚染区域」を出たのです。
 自分の体には「負の遺産」は入っていないと思っています。でも、忘れてはならない大惨事のことはしっかりと頭の中に入っています。もうこれ以上地球を汚さないように・・・